心の備忘録

普段考えていることの記録です!

心を落ち着かせる言葉「足るを知る」

「足るを知る」

古代中国の思想家、老子の言葉だ。

要約すると、自分が今持っているものに満足し、必要以上に求めないことで幸せになれるという考え方だ。

私はこれを座右の銘にしている。

 

現代の消費社会において、心の平穏を保つために効果的な考え方だ。

人間の欲求というものは満たしても満たしてもすぐに乾く。

三大欲求に加えて、物欲や承認欲求など。

これらを暴走させてしまうから人は幸せになれないのだと思う。

欲求をコントロールすることが、幸せに繋がるのだと私は考える。

 

相対評価で価値が決まる物を追い求め続けたところで、幸せになれる保証はない。

例えば、家、車、など。

人間の消費欲は無限に湧き出るものだから、一度良い物を手にすると更にその上の物が欲しくなる。これが延々と続く。

厄介なのが人間は一度生活水準を上げてしまうと下げることが困難になる。

だから生活環境が変わるような大きい買い物をする時は冷静にならなければならない。

無限の消費欲に自己規律を持ってどこかで終止符を打たなければならない。

なぜなら、財産と精神をすり減らすだけだからだ。

物を買う時、一度立ち止まって今自分がどれだけ恵まれているかを再確認した方がいい。

その手順を踏み、それでも必要だと感じたのなら買えばいい。

ミニマリズムを推奨している訳ではなく、自分の財産と精神をむやみにすり減らさないことが大切なのだ。

私にも経験があるが、「物を得る」ことに満足するのではなく、「買う」という行為に満足している人が多くいるだろう。

これは非常に危険な状態であると言える。

「特定の物を得る」ということが目的であるならば、それを買った時点である程度物欲にブレーキがかかり、冷静になれる。

ただ、「買う行為」が目的になってしまえば、物欲にブレーキがかかるどころか、更に増していく。

ドラッグのようなものだ。

生きている限り、消費活動に終わりは来ない。

だから自己規律を持って欲求をコントロールしなければならない。

その困難を乗り越えるための手助けとなるのが「足るを知る」だ。

今自分が置かれている環境や持っているものは当たり前ではなく、感謝すべきものだ。

この気持ちを常日頃から持ち続けていれば落ち込むことも減り、むやみやたらに消費を繰り返すこともないだろう。

 

私は服が大好きだ。

支出の大半は被服費である。

たしかに趣味は人生を豊かにするために必要なことではあるが、服を買い続けるだけの人生に幸せは訪れない。

「足るを知る」という考えが服欲にブレーキをかけてくれる。

今までは毎月服を買っていたし、買うという行為に快感を覚えていたこともあった。

だが先月は一度も服を買っていないし、現在も消費欲求が以前に比べて弱くなっている。

本当に必要かどうか、冷静な見極めができる健全な状態にあるのだ。

買い物をした時の満足感も大きい。

欲求が弱いにも関わらずそれを買ったということは心の底からそれを欲しているということであるため、買ってから後悔する可能性も低い。

人間は慣れる生き物だ。

「買う」ことに慣れれば慣れるほど、満足感が減っていく。

逆に、物を買っていない状態が長く続いている時に物を買ったときの満足感は大きい。

 

「足るを知る」という考え方は欲求のコントロールだけでなく、落ち込んだ時にも自分を助けてくれる。

人が落ち込む時というのは基本的に何かに失敗した時や漠然とした不安を抱えている時だ。

それは「自分が持っていないもの」に目が向いている状態であり、その対象は能力、お金、恋人など様々だ。

そういう時は「自分が持っているもの」に目を向けるといい。

私の場合、まず家に住めている。ベッドで眠る事ができ、ソファでくつろげる。エアコンで室内温度の調整ができる。スピーカーで音楽を聴きながらリラックスできる。

これらのことは現代の日本での生活においては当たり前だと感じる人がいるかもしれないが、それは当たり前ではなく、とても恵まれていることなのだ。

人間は「自分が持っているもの」に対して慣れる。

最初に手にした時は新鮮でも、ずっと持っていれば当たり前になる。

それを見つめ直し、いかに恵まれているかを実感する。

そうすれば多少なりとも心が軽くなるはずだ。

 

「足るを知る」を心構えにしておけば、心の乱れが比較的穏やかになる。

私は、生きていくうえで精神の強度が最も大事だと思う。

精神を育てるという考え方で常日頃生きている。

今後もインプットとアウトプットを繰り返し、成長していきたい。

「やらないと決めた事」をやらないでい続ける難しさ

何か新しいことを始めたい。

生きていく上で誰しもが抱く欲求だ。

そして習慣化を試みるが挫折する。

大抵の人間がこんな経験をしているのではないだろうか。

私は以前、「やると決めた事をやり続ける事」が大きな壁だと捉えていた。

だがそれは半分正解で半分間違い。

「やらないと決めた事をやらないでい続ける事」の方が遥かに難しいのだ。

 

私は1年前と比べて生活習慣ががらりと変わった。

朝には起きれるようになったし、食事にも気を遣い、筋トレ・読書・ブログを始めた。

以前は、休みの日は昼に置き、栄養を考えずに食事をし、自分のためになる活動を何もしてなかった。

「やると決めた事の習慣化」は成功しているのだ。

しかし、「やらないと決めた事の習慣化」は未だに失敗を繰り返している。

自慰、二度寝、目的もなくスマホを触ることである。

1年前と比べたらそれをしてしまう頻度は減ったが、

完全に自己規律を持つことは難しく、自分を甘やかしてしまう。

本当はこれらに費やす時間、労力をもっと他のことに使うべきなのだ。

 

これら3つの失敗してしまうことについて、

自戒を込めて私の考えを述べていく。

 

まず、自慰について。

インターネットポルノが及ぼす危険性を理解しておかねばならない。

行為そのものよりもポルノが人に悪影響なのだ。

なんの苦労もせずにドーパミンを分泌させることがよくない。

快楽を得たいならそのための努力ができる人間にならなくてはならない。

脳に甘えた刺激を与え続けてしまうと人間はそれに慣れ、努力できないメンタリティが形成されてしまう。

大袈裟に考えすぎだと思う人もいるかもしれないが、何も考えずドーパミンを出し続けるよりは、危機感を持って自己規律を守る方が遥かに良い。

そのほうが魅力的な人間になれるし、自分ルールを守ることで自信にも繋がる。

実際に挑戦中だが、目覚めが良くなったし、他のことにも時間を使える。

こういった少しずつの変化を甘く見ず、積み上げていくことで人間は大きく変われる。

そう信じて努力する方が楽しく人生を過ごせるだろう。

性欲を満たしたいならポルノを見るのではなく、異性から素敵な人だと思われるような努力をしていくべきだ。

手軽な快楽の誘惑に負けそうになった時は、上記のことを自分に言い聞かせよう。

忍耐力を鍛えるトレーニングだ。

 

次は二度寝について。

せっかく朝起きれているのにこれをしてしまうと意味がない。

二度寝でしか得られない気持ちよさに負けてついつい寝てしまう。

たまにする分にはいいが、毎日は駄目だ。

朝スッキリと目覚め、スムーズに活動を始めることができたらとても気分がいい。

今日も一日頑張ろうと思える。

目先の快楽を満たすのではなく、自分が本当に満足できることを追い求める姿勢を持とう。

苦労のない快楽は、その一瞬気分がいいかもしれないが、心の底から満足を得られる訳ではない。

「本質的な幸せ」に苦労は付き物だ。

小さな自己規律を守り続けることでそれは成長し、大きなものになる。

それに比例して自信が付き、いろんなことに挑戦しようとするメンタリティが出来上がる。

「こんなことしても人は変わらないだろうな」と思ってしまうような小さな経験の積み重ねが人を変えるのだ。

 

最後に目的のないスマホの使用について。

現代人を悩ませる最大の敵である。

特にSNSと動画コンテンツ。

少しだけ見るつもりが、気付けば数時間経っていたという経験を誰しもがしているだろう。

数時間も情報を頭に入れ続けているのに得られるものは何もない。

次に日になればその日SNSや動画で得た情報など綺麗さっぱり忘れている。

目的もなくスマホを触ることは時間の無駄でしかない。

これもインターネットポルノと同じで、ドーパミンが放出される。

スマホの中のコンテンツは脳の仕組みに訴えかけてくるシステムになっており、意思の力だけでは太刀打ちできない。

だからアプリを消すなどして強制的に見られないようにする習慣を自分で作らなければならない。

私はXを削除したが、今までXに使っていた時間を他の有意義なことに使えているし、精神的に良い効果も実感している。

自分の人生を生きるために、不要な情報は取り入れないようにすることが大切なのだ。

 

私自身が何度も失敗してしまう「やらないと決めた事をやらないでい続ける事」について、自分への喝も込めて考えを述べた。

忍耐が切れそうになった時はこのブログを読み返し、少しづつ自己規律を育てていこうと思う。

何事も挑戦からすべては始まる。

気持ちを吐き出す

モヤモヤを抱えて生きている。

人間ならば誰しもがそうだ。

そのモヤモヤ自分の内に抱え込むのではなく、外に出すとスッキリする。

今私が感じている気持ちをここに吐き出していく。

 

まず、仕事についてだ。

とある事情で2024年の7月をもって退社することになった。

だからこれから転職活動をしなければならない。

私は新卒就活が長引いた人間で、その辛さを身をもって体感している。

7月までまだ時間があるから、改めて自己分析や企業研究などの今できることを着実にやっていきたい。

 

新卒就活の時、アパレルか比較的安定している会社のどちらにいくかで迷っていた。

人生において自分の興味関心を優先するか、安定度を優先するか。

後者を選んだのだが、結果3か月で退社した。

だが入社したことも退社したことも後悔していない。

むしろ1社目がその会社で良かったと思っている。

自分への理解を深めることができたからだ。

当時の自分は会社の規模や家賃補助等の条件を重視して入社を決めた。

事業内容にはまったくと言っていいほど興味がなかった。

だがそれでも仕事は仕事だと割り切って頑張れるだろうと思っていたのだが、そうではなかったらしい。

自分が興味のないことは本当に頑張れないということにその時ようやく気付いた。

人生の8割ほどは仕事をしている。人生の大部分を占める仕事が興味のないことで良い訳がないと思い、アパレルに転職した。

この経験は自分にとっては財産だ。

いわゆるスーツを着る仕事に対して、しんどそうといった漠然としたイメージしか持っていなかったが、実際にそのしんどさを味わうことができた。

そして興味のないことは頑張れないことに気付けた。

誰でもそうだろうと思うかもしれないが、実際にそれを体感するということが重要なのだ。

ただ道を知っていることとその道を実際に歩くことは全然違う。

やってみることで自分の心の底にある眠っている意識に気付くことができるのだ。

 

この経験とアパレルでの経験を糧にポジティブに転職活動をしていく。

新しい環境に身を置けるワクワクと上手くやっていけるかどうかの不安が半々だが、自分にとってこれは健全な精神状態だと感じている。

何事も緊張感とリラックスをバランスよく持って取り組んだ方が良い。

 

次は恋愛についてだ。

私は恋愛経験が豊富ではないし、結婚願望もどちらかと言うと薄いと思う。

子どもが欲しいと思ったことも一度もない。

現在は1人で自由気ままに生きていきたいという気持ちが強いが、それは若さゆえのものなのだろうとも思う。

かと言って結婚のことを真剣に考えるほどの熱量がない。

恋愛についてはどうしたいのか自分でもよくわかっていない状態だ。

よくわからないのなら、わからないなりに足掻いてみればいい。

世間の圧に影響されず、自分の意思を尊重したい。

恋愛・結婚するのが当たり前で、それをしてない人間はやばい奴で負け組。

なんとなくそんな「空気」を感じるだろう。

大事なのはその空気に気を遣うのではなく、自分の心に正直になることだと思う。

なぜなら自分の心が満たされているかどうかを決めるのは自分であり、「空気」は責任を取ってくれないからだ。

マツコ・デラックスが番組で本当の幸福とは「他者を介在させずに得られる喜び」だと言っていたが本当にその通りだと思う。

恋愛・結婚しないという「常識」から外れた人間は外野から戯言を言われるだろうが、そんなことは気にしなくていい。

表立って人の悪口を言うような人間の発言に価値はないし、そういう人たちは自分が幸福を得ようと努力することについて何の責任も取ってくれない。

ただ自分の心に正直に生きればいい。

恋愛をしたいという気持ちが強くなった時にすればいい。

ただ、そのためには自分を磨くことを怠ってはならない。

自分に正直に生きるべきだとは思うが、ダラダラしてもいいという理由にはならない。

規律を持って自身のやるべきことをやる。

恋愛をするには何かしらの魅力が必要だし、これができていれば魅力的な人になれる。

 

最後に将来について。

これは仕事や恋愛も含めたことになるが、人が不安を抱えるのは良くも悪くも未来のことを考えすぎるからだろう。

 

最近は長期的未来のことは考えないようにしている。

不確定要素が多すぎて、考えたところでどうしようもないからだ。

今何か思い悩んだとて、どんな未来になるか誰にも予想できない。

考えるだけ時間の無駄だ。

未来のことについては未来の自分が何とかしてくれる。

我々はそうやって生きてきたはずだし、これからもそうやって生きていく。

今この瞬間にできることをやる、ただそれだけでいいのだと思う。

 

ただ、計画を立てることは必要である。

なので中期的未来についてはある程度考える価値はあるだろう。

3年後、5年後のビジョンは持っておくと、そこから逆算して今やるべきことが明確になるし、モチベーションにも繋がる。

 

要はバランスが大事なのだ。

未来のことを考えすぎると精神を病むし、考えなさすぎるといざ未来が来た時、取り返しのつかない事態になっているなんてことが起こる可能性もある。

ある程度のビジョンは持ちつつ、今この瞬間目の前のことを1つ1つやり遂げる。

そういう生き方をしていきたい。

 

ここまで私が抱えているモヤモヤを文字に起こしたが、

とてもスッキリした。

自分の思考、感情が整理されたし、これからも頑張ろうというモチベーションアップにもなった。

 

自分の気持ちを何か形に残すということは素晴らしいことである。

SNSで病む人へ

・脱SNS

今の時代にSNSのない生活を想像できるだろうか。

私は今年で25歳であり、SNSが普及していなかった時代も知っている。

だが、スマートフォンの便利さやSNSを知ってしまった今、それがない生活に戻るのは難易度が高い。

何度もデジタルデトックスに挑戦しているが、失敗を繰り返している。

 

そんな中、約1年前にinstagramの知り合い等をフォローしているリア垢を削除した。

現在は、情報収集用のフォロワー0のアカウントのみ持っている。

知り合いはフォローしていない。

また、先日脱X(旧Twitter)にも成功した。

今までは消してもすぐに入れ直していた。

だが現在はそれもなく、入れ直したいとも思わなくなった。

そのきっかけについて話していこう。

 

・インスタのリア垢削除

人間はどうしても他人と自分を比べてしまう生き物だ。

本当に比べるべきなのは過去の自分であると頭では分かっていても、

他人に意識が向いてしまう。

今の人間はほぼ全員がこの事に苦しんでいるだろう。

その原因の1つはSNSだ。

特にインスタは知り合いの日常のキラキラした部分がよく目に映る。

オシャレな飲食店、ハイブランドでの買い物、恋人や友達との遊びなど様々な情報が流れてくる。

私と同じ世代の人たちなら結婚報告や出産報告を見た人もいるだろう。

これらの情報が自分の精神を蝕む。

他人のキラキラした情報を見てもポジティブな感情しか湧かない人間も中にはいるだろうが、大抵の人間はそれを見て落ち込む。

言うまでもなく私は後者だった。

自分にとって役に立たない情報を見て勝手に落ち込んでいたのだ。

また、自分が発信することもあるだろう。

いいねが来ると嬉しくなってしまうし、ストーリーが誰にも見られていないとなると悲しんでしまう。

はっきり言ってレベルの低い自己顕示欲の満たし方だと言える。

インスタのリア垢が自分の生活を良くないものにしていると感じ、思い切って削除した。

最初は若干抵抗があったが、すぐに慣れた。

今ではわざわざインスタで何かを載せようとも思わないし、知り合いの近況を見たいとも思わない。

そもそも仲の良い友人なら定期的に会うし、LINEでも話すだろう。

だからわざわざ友人とインスタで繋がる必要もないし、インスタでしか繋がっていない顔見知りたちとの縁が切れようと何の問題もない。

ただ、新たな人と繋がりを持てる、普段出会わない人と繋がることができるといったことをメリットと捉えることもできる。

だが私はそういったことよりも悪い影響に悩まされていたから削除した。

 

今では好きなコンテンツの情報を得るためだけのアカウントしか持っていないので余計な情報を見る機会が減ったし、精神も安定しやすくなった。

他人と比べて落ち込むといったことが頻繁にある人は一度消してみるといい。

 

・X削除

個人的にXはインスタよりも厄介だ。

人間の嫌な部分が凝縮された文言が頻繁に流れてくるからだ。

Xでは常に誰かが何かを叩いている。

当然そんな情報は精神的に悪い影響を与える。

だが、他人の不幸は密の味だ。

ネガティブな話に人間は注目し、盛り上がる。

それとは別に、面白いネタツイや有益な情報が流れてくることもある。

SNSは本当によく出来ている。

エンジニアが画面に釘付けになるように作ったシステムに我々が勝てる訳がないのだ。

 

芸能人のスキャンダル、男女の奢り奢られ論争、蛙化現象、パパ活女子、旦那や妻の悪口、年収・職業等のマウント合戦。

度々Xで話題になる害悪な話題たちだ。

他にもあるだろうが挙げればキリがない。

こういったネガティブな話題には嫌味な物言いをする人たちが集まる。

お互いがお互いを見下し、レベルの低い承認欲求を満たすために

実生活に関わりのない、顔も名前も知らない相手を論破しようとする人たちが溢れている。

こんなものを見て有益な情報など何一つ得られない。

自分の時間が奪われ、精神を病むだけだ。

そして、人間の嫌な部分を見続けていると段々と自分の思想が歪んでくる。

それに嫌気がさし、危機感を覚えたため、Xのアカウントを削除した。

 

本当に気持ちがスッキリしたし、もう二度とインストールしたくない。

情報収集にXを使っていたが、その手段はそれだけじゃないし、今は特別困っていない。

 

・情報の取捨選択

玉石混合の情報過多のこの時代に必要なのは選択する力だと思う。

何を知る必要があるのか、そして何を知らないままでいるのかを見極める力だ。

自分にとって本当に必要な情報だけを取り入れ、余分なものは無視する。

こういう姿勢を持たないと情報中毒になってしまう。

スマホは便利で様々なことを教えてくれるが、

自分が豊かに生きるための方法は教えてくれない。

自分の時間を生きることが大切だ。

読書の素晴らしさについて

読書習慣のない人は「読書している人=偉い」といった印象を持っているだろう。

しかし、当の本人たちは自分のことをそんな風には思っていない。

偉いから本を読むのではなく、面白いから本を読むのだ。

学生時代はまったく本を読まなかったが、社会人になってから読書習慣が身に付いた。

その経緯を綴っていく。

 

小中学生の時に朝読書という時間があった。1限目の前に行うものだ。

その当時から私は活字を読むことを苦に感じていた訳ではない。

むしろ面白いと思った本は休み時間を使って続きを読んでいた。

ただ、家にいる時に読もうと思えるほどの熱量はなかった。

高校生の時は朝読書がなかったので、読書とは無縁だった。

 

大学2回生の頃だろうか。

読書を趣味にしようと挑戦した。

学を付けたいという理由で習慣付けようとしたが、続かなかった。

今考えれば当然である。

純粋に本を楽しむのではなく、「ためになるから」という理由で読んでいたからだ。

「読みたい」ではなく「読まなければ」という感覚だった。

少しでも強制されている感覚があると物事は続かなくなる。

2.3冊ほどは読んだが、そこからまた本とは無縁の生活を送ることになる。

 

そして社会人になった。

ここでもう一度同じ理由で読書を習慣付けようとした。

今度は成功した。

その理由は簡潔に言うと「学を付けたい」という気持ちが学生の頃より強かったということと、純粋に読書を楽しめているからということだ。

詳しくは『「継続」について』で述べている。

「読まなければ」という気持ちがきっかけだったが、今では「読みたい」という気持ちが強く、そのおかげで習慣化できた。

ここまでは私が読書習慣を身に付ける経緯について述べたが、次は読書の素晴らしさについて述べていく。

 

私が感じる読書の素晴らしさは3つある。

まず1つ目は没入できるという点だ。

生きていれば人間は様々なことに悩まれる。

それは人間関係であったり、仕事であったり、将来についてであったりだ。

その現実と向き合うことは重要だが、そればかりだと精神を病んでしまう。

そこで読書が素晴らしい休息になる。むしろ本によっては悩みを解決するきっかけになることもあるだろう。

本の世界観に入り込むことで余計なことを考えず、そのひと時を穏やかに過ごすことができる。

思考が整理され、冷静な気持ちになることができる。

 

どこかで聞いた言葉だが、

ネガティブを打ち消すのはポジティブではなく没頭だ。

何かにのめり込むことが人間の精神にとって一番の薬となる。

読書はその薬に成り得る趣味の1つだ。

 

そして2つ目。

学びが得られるという点だ。

ここで1番重要なのは自身のマインドである。

ただ読むという行為だけでは学びにはならない。

読み、考え、それをアウトプットする。即ち実生活に取り入れるということだ。

何かを掴んで実生活に取り入れようとするマインドを持たなければ、どんな名著からでも学びは得られない。

そして次に何の本を読むかである。

 

「本=勉強になる」という印象があるが、すべての本がそれに当てはまる訳ではない。読まなくていい本も存在するし、それは人によって変わってくる。

興味が湧かない本を無理に読む必要はない。

 

視野を広げたい、特定の悩みを解決したい、文章表現を磨きたい、スキルを身に付けたい。

「学び」と一口で言っても何を学びたいかは人それぞれだ。

ジャンルは気にせず、上記のマインドを持って気になったものを片っ端から読めばいい。

その本がためになるかならないかを判断するのは他人ではなく自分なのだから。

 

3つ目は単純に面白いという点だ。

小説は1つの物語として面白いし、エッセイやアカデミックな本は著者の経験や価値観、また自分の知らない世界について知ることができる。

著者によって当然文の構成や言い回しが異なるので、そういった部分を楽しむことができる。

 

これが読書の1番の素晴らしさだと言える。

面白くない本に没入することはできないだろう。

また、学びにはなるけど面白くない本も読んでて苦痛になる。

本を読めば読むほど知的好奇心が刺激され、簡易的ではあるが様々な世界に触れることができる。

 

小説家には面白い物語を作る才能があるし、アカデミックな本を書く人の大抵はその分野において経験豊富である。

自分よりも優秀な人たちの思考、価値観をお金で買えるのだ。

そのうえ本を手に入れる手段は簡単で、ネットで探すか本屋に行けば済む話である。

気軽に読書ができる環境にいる自分がつくづく恵まれていると感じる。

 

以上が読書の素晴らしさだ。

自分の興味関心や価値観を良い方向に広げてくれるのが本という存在である。

 

この世には面白いものがたくさん溢れている。

それを楽しもうとするマインドを持ち続けることが重要なのだろう。

 

 

 

孤独との向き合い方

・他者評価を気にしていた学生時代

人付き合いは煩わしいけど寂しがり屋。

そんな人がたくさんいるだろう。

かつて私もそうだったので、気持ちがわかる。

今も時折寂しさを感じることはあるが昔ほどそれで落ち込まなくなったし、

1人の時間が楽で楽しい。

私は子供の頃から友人が多くはなかった。

社会人となった今では定期的に会う友人は2人だけである。

ただ今はそれに満足している。

大事なのは量ではなく、どこまで深い付き合いができるかが肝心だと考えているからだ。

 

学生時代の私は友人が少ないことがコンプレックスだった。

特に高校生の時は強い劣等感に悩まされた。

周りから「友達が少ない奴」だとか「ぼっち」だと思われていないだろうかと心配だった。

多感な時期ということもあり、とにかく周りの目を気にしすぎていた。

大人になれば、自分が思っているほど他人は自分を気にしていないということに

気付けるのだが、学生のうちからそのマインドを持つのはなかなか難しい。

 

大学生の時点ではその劣等感は薄くなったが、完全に消えた訳ではない。

自分が所謂「イケてるグループ」に属せているかどうかを気にしていた。

今考えれば本当に情けない話だ。

周りの目を気にする癖がまだ残っていたのだ。

そんなことばかり考えていたため、

学生時代は1人でいることに抵抗があった。

 

そして、卒業し社会人になった。

この時点で周りの目を気にすることはなくなったし、

1人でいることに対しての抵抗も薄れていった。

だが、自分がそう思っているだけで

無意識に気にしてしまっている面はあるかもしれない。

ただ少なくとも学生の時ほど劣等感は抱かなくなったし、他者からの評価を気にしすぎることもなくなった。

 

・意識の変化

なぜ社会人になってから意識が変化したのか。

学生時代は自身が「陽キャ」か「陰キャ」か、「イケてるグループ」か「イケてないグループ」か、友達が多いか少ないか、そんなことばかりを気にしてしまう人が多いだろう。そうでなければ「陽キャ」や「陰キャ」という概念、言葉は生まれなったはずだ。

例外もいるだろうが、勉強ができるかどうかよりも「自分の立ち位置」を深刻に考え、悩むのが学生だ。少なくとも私はそうだった。

大抵の学生が属するコミュニティは主に3つだ。

「学校」「バイト先」「家族」である。その中でも学校に重きを置く人が大半だろう。学生にとっては「学校」というコミュニティが世界のすべてかのように感じてしまう。

そして、卒業すれば当然そのコミュニティは消え去り、「会社」など他のものに変化していく。世界が広がったように感じ、「自分の立ち位置」で悩むことが減っていくのだ。

社会人になれば、仕事の成果や将来に対しての不安に向き合っていかなければならない。周りの目線を気にすることよりも遥かに重要な壁にぶち当たる。

そうなれば自分の意識は外側ではなく、内側に向き始めるのだ。

 

そして社会人になれば付き合いのある友人が減っていく。

ライフステージの変化のペースは人それぞれだし、予定が合わなくなったりして徐々に疎遠になっていく。

また、大人になってから明確に価値観が合わなくなり、自ら縁を切るということもある。

学生の頃に比べて、社会人になってから1人でいる時間が増えた。

ここから本格的に孤独との戦いが始まる。

 

・1人時間の過ごし方

社会人になるタイミングで1人暮らしが始まった。

やはり最初は寂しさを強く感じた。

この頃、1人でいる時はスマホをだらだら見たり、1人で買い物に行ってみたりと何かと消費するようなことばかりしていた。

要はやりたいと思えることがなかったのだ。

毎日退屈で、精神状態もあまりよろしくなかった。

それは仕事の影響もあるが、話が逸れるのでここでは書かない。

 

「・意識の変化」でも述べたが、社会人になると将来への不安を漠然と抱えながら生きていくことになる。

何かを始めなければという気持ちに駆り立てられ、筋トレや読書、英語を始めた。

英語は続かなかったが、今はこうしてブログを続けている。

筋トレや読書は習慣化され、それがない生活が考えらないほどだ。

ブログ、筋トレ、読書などやりたいと思えることに出会えた。

そのため、今は孤独に悩むことが減った。

歳を重ねれば、さらに強い寂しさに襲われることもあるだろうが、

今は自分のやりたいことを継続し、魅力的な人間になりたい。

 

・孤独を楽しむには

何かに没頭することだ。

これ以外に解決する方法はないと思う。

どんなことでもいいからやりたいと思えることを見つけられたら

孤独がネガティブなものではなく、ポジティブなものへと変化する。

没頭できることが消費活動ではなく、創作活動だと尚良い。

これは宇多田ヒカルが何かのインタビューで答えていたことだが、

それに強く共感した。

例えば、写真を撮る/曲を作る/文章を書く/絵を描く

といったことだ。

何かを形に残すというのはとても大切なことだと思う。

自分の気持ちがスッキリするし、自分が何に興味関心を抱いているのかを見つける手掛かりにもなるだろう。

私がしている筋トレや読書は創作活動ではないが、

筋トレは体に変化が残るし、読書は自分の価値観を幅広いものへと変化させるきっかけとなる。

また、私はこうして文章を書いているので、表現方法を参考にすることもできる。

自分がそれに取り組んでいて、気持ちが晴れるかどうかが大切だ。

そう思える活動をコツコツと続けていくことが人生を豊かに過ごすために必要なのだろう。

 

今は孤独に悩むことはあまりない。

またそれに悩まされる時が来るかもしれないが、

そうなればその時に考えればいい。

今を良く生きるために私はこれからも考え、動いていく。

「継続」について

人生を豊かに過ごすために最も重要で、且つ最も難しいこと。

それは継続することだ。

今まで何度これについて挫折してきたことか。

私以外にも物事を継続できない事に悩み、苦しんでいる人はたくさんいると思う。

今回は継続について、私の経験から得たことを話していく。

 

大学生の頃、「時間を無駄にするのは良くない」、「将来のために何か今のうちから始めないと…」そんな思いで英語、筋トレ、読書に挑戦したことがある。

どれも失敗に終わった。具体的に言えば、習慣化することができなかったのだ。

社会人一年目の頃、本業以外の稼ぎが欲しいと思い、ブログを立ち上げたがそれも失敗に終わった。

なぜ自分の意思はこうも弱いのか、悩んでいたし今もそれは解決には至らずだ。

しかし、社会人2年目の今、筋トレと読書は継続できている。それも「続けなければならない」といった義務感はまったくなく、楽しんでそれらに取り組んでいる。

むしろしないのが気持ち悪いぐらいなので、完全に習慣化されたということだ。

 

大学生の頃と今の違いは何なのか。

それは「継続する理由の深さ」と「物事を楽しんでいるかどうか」の2点だ。

まずは前者についてだ。

大学生の時も社会人となった今も物事に取り組む動機は同じであった。

ざっくり言えば「自分を変えたい」という思いだ。

どこまでその気持ちに熱量があるのかというのがポイントだ。

大抵の学生は親に頼って生活している。私もそうだった。

実家に住み、家事は母親がやってくれる。

生活費は父親の仕送りに加えて母親が払ってくれる。

そして自分は学校に行き、アルバイトに励む。

今思い返せば、物事が続かなくて当然だろうという気持ちになる。

周りに甘え切って生活し、自分の力のみで生きていくという経験をしていないからだ。

物事が続かなくても、住む家はあるしご飯も食べられる。

しかし社会人は自分で稼ぐ力がないとこれらの生活インフラを手に入れることができない。

物事の継続は稼ぐ力や人としての魅力に繋がる。

実際に一人暮らしの社会人を経験し、「自分を変えたい」という思いが確固たるものとなった。

学生の頃はぼんやりと柔らかい気持ちを持っていただけだった。   

だから「めんどくさい」という気持ちに打ち勝てなかった。

 

そしてもう1つの理由である「楽しめているかどうか」について。

これがかなり重要でなかなか難しい。

学生の頃は ”ためになるから” 筋トレをしていたし、本を読んでいた。

運動そのものや物語を追うこと、知識を得ることを楽しむ気持ちが薄かったのである。

物事が続かなくて当然だ。

今も「ためになるから」というのは動機の1つであるが、学生の頃と違ってその行動そのものを楽しんでいる。

運動は気持ちがスッキリするし、新たな知識や表現を得ることで心が満たされる。

なぜそう感じられるようになったのか。

これも社会人経験をしたことによる影響だ。

1人での生活を始め、どうすれば自分の人生に満足できるか、魅力的な人間になれるかといった終わりのない問答を繰り返すようになった。

現時点での自分なりの答えは、「目の前にあることを楽しむこと」、「継続すること」だ。

自分の人生を楽しめるかどうかは自身のマインド次第だ。自分が行うこと1つ1つにポジティブな気持ちを持てるようになればそれが満足に繋がる。

何か能力を身に付けるために最も必要なことは継続することであり、それが魅力に繋がる。

こういった思考を経たことで、自分の行動を楽しめるようになった。

このブログも楽しんで書いている。

文章にすることで自分の思考が整理され、良い気分になる。

 

物事を継続するためには上記の2つが不可欠だ。

役に立ち、尚且つ自分が好きな物事。

これを見つけるのが本当に難しいのだが、これを必死になって探すことが人生の充実に繋がるのだと思う。

何か1つでも実際に継続することができれば、その重要性を深く実感できる。

私は筋トレの影響で体系が変化し、食生活が改善された。

健康志向になり、もっと良い体になりたいという気持ちも増していく。

実際に継続することで継続したいという欲求が強くなるのだ。

むしろ辞めるのが嫌なぐらいだ。

筋トレのない生活が考えられない。

読書も同様だ。

小説や自己啓発、学術的な本など様々なジャンルを読むが、その度に新たな発見があるし、自身の価値観も少しずつ変化しているのを感じる。

知的好奇心に終わりはなく、次は何を読もうと考えながら本屋に行ったり、ネットで探したりする。その時間すらも楽しいのだ。

単純に読書という行為を楽しんでいるから内容が頭に入ってくるし、自身の知識や考え方がアップグレードされる。

筋トレと同じく、今では読書のない生活が考えられない。

 

継続することに成功すれば、むしろそれがない生活が嫌になる。

最終的にライティングでお金を稼ぎたいが、その気持ちだけでは継続は不可能だ。

なによりも私は文章を書くことを楽しんでいる。

この気持ちを大事にしながらブログを「継続」していきたい。